be myself

侵害しない生き方

愛をもってしても対立する

私が一番嫌いな事は
自分の生活、考え方、行動に
制限をかけられる事なんだけど

「炎炎の消防隊」を見てて
人の生き方を侵害しないって
そんな生き方って
どうやったら出来るんだろう

そんな事を思った。

このアニメに限らず、
今のアニメって本当にいろんなことを考えさせられるよねぇ
大好き

そして、この炎炎の消防隊の中で
人々の平和の生活の為に
1人の特殊な能力を持つ人が犠牲になっている。という設定。

1人の人生を犠牲にして
大勢の生活を守る。

その事は一部の人にしか知られていないし
守られている人たちはそのことを知らずにいる。

その事を知ってる人は
大勢の人を守りたいがために
1人の犠牲に目を瞑っている

それも、私は「愛」だと感じるんだよねぇ

誰も犠牲にしたくないっていう主人公も
「愛」だよねぇ

なんで「愛」がある者同士で
争わなくちゃいけないんだろうって

ちょっと涙が出てきたよ。

誤解が対立を招く

私が体験した対立

ちょっと前に私が体験した
誤解による対立があって、

それについて少し話します。

数年前、三女が小学生だった時
子どもが任意で参加するスポーツ団体で保護者の会で部長をしていた時

私、他の保護者の人と色々揉め事はあった偽よ
何とかうまく言ってるし、何より信頼していたんだけど

うちの子が卒団する時、最後のお楽しみ会で
私以外の保護者にひどい裏切りを受けて
しばらく人間不信になったことがあります。

その原因は、今でもはっきりわからないんだけど、
中立していた他のお母さんから聞くと
私が進めた子どもたちのユニフォーム購入の件が
発端になっているという事だった。

??????

何で、子どものユニフォームを購入することが
そんなに問題になったのか
私はその人たちの本心は未だに分からないんだけど
(直接聞いてないので・・・)

多分、多くの誤解があったのだと思う。

私は他意が無く
子どもたちが擦り切れたユニフォームを着ていたので
新しいものを着せてあげたかっただけなんだけど

そこにお金が絡んだことによって、
多大な誤解を生んだみたい。

ただ、購入に関しては反対もあったけど
話し合いをしたうえで納得していたと思ってたんだけど、
そこに私の過信があった事で
誤解を誤解のままにしてしまって
こうなったんだと思う。

ひとつの誤解はどんどん連鎖していって、
そこに、それぞれの不満が重なっていって
大きく膨れ上がって
最期は子どもたちを巻き込んで
悲しい結果になってしまった。

彼女たちは自分こそ正義だと思っていて
自分たちは被害者と決め込んでいるようだった。

私は心の底から腹が立ったし、怖かったし、悲しかった

私が後悔したのは
相手が理解してくれていると過信してしまったこと。
本当のところを確認することを怠ったこと。

お互いが正義だったし愛だった

この対立はどちらも正義だったし愛だったと思うのよ。

今思えばねww

当時は本当に腹が立って、
その中でも主導権を握っていた3人の保護者に対しては
憎しみしか無くてw

でも、子どもに最小限ダメージが行かないように
取り繕うのがやっとで
自分の気持ちに蓋をしてやってきたので
結構な間消化できずにいたけど

今はその3人に対しても
「愛」があったんだろうなと思う。
もう少し私に余裕があったら
もっと子どもたちの為に協力できただろうなと思う。

つい最近、その中の一人が
自分の子どもさんと他の子のトラブルに対して
学校のに乗り込んでいったり
相手の家庭に乗り込んで
相手に謝らせる
っていうのをやったみたいで・・・。

あぁ、やっぱりねって思うと同時に
本当に哀れに思った。

多分、子どもに対して本当に大事に思っているから
そういう行動に走ってしまったんだと思うけど

本当はそうじゃない

もう、我慢しなくていいんだよって
もうそれ以上頑張らなくてもいいよって

言ってあげたい気持ちになって

抱きしめてあげたい気持ちになって
自分でもとても不思議に思った。

多分↓のけいk

🎶私の中でお眠りなさい🎵うっかりコロナに対してつぶやいた件8月の末から9月の頭にかけて 東京に行ってきました。 コロナ療養ホテルの健康管理業務 派遣のお仕事です。 ちょうど感染者...

 

 

誤解を生む「依存」と「過信」

多分人間の行動ってほとんどが「愛」が根本にある

私ねぇ子どもが生まれた時、
それまでに私が体験して学んだことを
全部伝えていこうと思った。

どうしてかって言うと

私と同じ失敗をして欲しくなかったから。

だけど、それをやってる時は
とてもしんどかったなぁ

だって、私がそれまで経験で学んだことは
全て(ほとんど?)他人の価値観や世間の常識に依存してたから。

そこに頼り切ってたから、
上手くいかない時に
『なんで!(# ゚Д゚)」思って、
「そうやればうまくいくはずなのに、私のやり方が、私だからうまくいかないんだろうか」って、自分の存在を疑ってかかってたよね。

世の中はそういうもんだから
あなたもそうでしょう

そういう価値観への依存と
周りへの過信

そういうのが、対立を生むきっかけになっていると思う。

 

今の世の中
人を犠牲にすることを何とも思わない人
結構いる

ただ、そういった人たちでさえ
守るものがあったりして・・・

そういうのを知ると
やりきれなくなるよね。

どうしたらそういうのが無くなるのかなって
考えた時

やっぱり、一人ひとりが
自分の自由を自分で守ることと
相手の自由を侵害しない事

そこを信念にして
自立している事しかないんじゃないかって思う。

依存と過信を生み出しているものに被害者意識っていうのも関連あると思う

子ども
「誰かに嫌われてる」って思う時三女のお友達の話 「あの子に睨まれる(嫌われている)」 三女がお友達Aちゃんから相談されたのね。それで、フムフム・・...

違いを認めること

自分の感情や行動に責任を持つこと
人に依存しない事

人間って一人で生きていくことは
絶対に出来ないので
頼ったり、頼られたりすることがあるけど
それに依存しない

他者との境界線をしっかり持つこと。

そして、お互いは違うのだと認めること。
違ってもいいのだと
それを受け入れること。

もし、何か一つの事を何人かで成し遂げようとする時
どれだけお互いの本音を出し合うか
そして、違う所を認め合う事が出来るか
その上でアイディアを出し合う事

相手が納得しているだろうという過信
自分を分ってくれているはずだという依存

そこをしっかりクリアにしていく努力が
これからは必要なんだろうな

 

そして、全ては「愛」なんだと知ること

被害的になると「愛」は見えないかもしれない

自分を信じることと他人を信じることは同じこと

私のやってきたことは
間違いなく子どもへの「愛」なんだけど
その基準が「自分」じゃなくて「他者」にあるだけで

本当に苦しいものになる。

だけど、他者に合わせる努力っていうのも
結構大切で、
そうしなければ違った意味で苦しい

そして、その苦しい事が起こった時に
自分発信なのか他者発信なのか
それによっては納得できることも納得できにくくなる。

それと、子どもは守るべきものっていうのも
子どもにとっては大きなお世話だった。
もっと周りと自分を信じた方が良いって
本当に思った。

みんなそうでしょっていうがヤバい

結局最後には
自分とそれ以外を信じること

炎炎の消防隊の内容に戻るけど

1人を犠牲にすることで大勢の人の人の生活が守られるとしても
犠牲になろうとしているその一人が「NO」と言えたなら
もしかしたら違った帰結策が生まれる可能性だってある。

弱い立場を思いやることが出来たなら

相手の「NO」を受け入れる

自分が思った結果にならなくても
相手の「NO」を受け入れることで
より良い結果になると信じること

誰かを犠牲にすることは
自分の中の何かを犠牲にすることと同じこと

私は本気でそう思う。

 

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