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愛に気付く方法

昔、「愛」って特別な人が得られるものだと思ってた。

「愛される人」って何かを持ってる人?

何も持ってない私は
その何かを得ようとして
「愛」を与えて貰うにふさわしい人になろうとして
凄く頑張ってきたんだけど

そもそも「愛」ってそんなもんじゃなくて
どの辺に沢山あって
どんな人も分け隔てたりしないもんだ

それに気が付くまで50年以上もかかちゃった

あ、いや、小さい頃は知ってたはずなのに
どこからか忘れてしまってたんだね。

精神科に勤めてる時の話

家族に理解されないうつ病患者さん?

うつ病の患者さんがいて

その人は小さい頃から虐待を受けて
でも頑張り屋さんで結婚して子供も出来て
何でも出来てしっかりしてる人だったのに

ある日から不調になって
うつ病発症。
薬物療法をいていても
自殺未遂を繰り返し
入退院を繰り返している人だった。

その人の境遇は
とても同情したし、特に小さな頃の事は
聞くに堪えないようなこともあって
そんな彼女に夫は淡々としていて

傍から見ると、「このご主人、本当に分かってるのかなぁ~?」って
思うくらいだったんですが

看護師たちの間では
うつ病患者さんへの理解が足りない
家族として配慮が足りないって
レッテル貼られそうなご主人だったんだけど

よ~く見てみると
十数年の間、重症と緩解を繰り返し
家事や周りとの人間関係で
ボロボロになってる彼女を
決して見捨てたりしてなかった。

世間体も大事だったのかもしれませんが
彼女の為に家事が楽になるような家電を揃えたり、
家をリフォームしたり
自分が出来る家事をやってみたり
休むように声をかけたり

ちゃんとやってた。

だけど、彼女は「分かってくれない主人とはもう別れたい」って言う。

何でそんなことになるのかとても疑問だった。

彼女の「愛」に対するこだわり

普通というか、私の感覚なんですが、

小さい頃に虐待を受けた
その事で生き辛さを抱えてしまい
それでも頑張っている人
でも上手くいかない
その為に周りの人に申し訳ない思いで暮らしている
そして耐えられなくなり
自殺までしようと思ってしまう人

そういう人に対して
私は親切でいなければならないと思っていたし

進んで手を差し伸べるべき
それこそ
困っている人を見捨てたりなんか
絶対してはいけないと

そう思ってきた。

それは、もし自分がそういう立場になったら
そうして欲しいという願望があったから。

恐らく、彼女もそう思っていて
多分世の中の大多数の人が
そう思っていて
彼女の中で

「こうして欲しい」って言うのがあったの

それは、優しい言葉がけや
労わってくれること
守ってくれること
心配してくれること
寄り添ってくれること

自分が辛い時は
一緒に辛さを分かち合ってくれること

だけどご主人は違う。
彼女は理解されてない
「愛」を貰えてないって思って
更に彼女の辛さは助長されたんだよね。

それ以外を・・・。
彼女の思っている「愛」以外を「愛として認められない」っていう
認知の歪みがあったんだよね。

「愛」にはいろいろな形がある

ご主人は飄々としていて
彼女の辛そうな表情を見ても
「はいはい」って感じて

先にも書いたけど「彼女の辛さを分ってんのかなぁ?」って疑問を持つ感じだったんだけど
よく話を伺ってみると
彼女の境遇はすごく理解していたのね。

だからこそ、二人で前を向いて行きたいって言う思いがあって
敢えて辛そうなときには少し距離を置いて
自分の不幸に飲まれていく彼女の目を
違う事に持っていこうとして必死だったのね

これ、「愛」と言わずしてどうする?

でも、彼女には伝わってなかった。
それでも彼女を支えようとご主人は頑張ってたんだよね。

ほんとに「愛」って色んな形があるんだって
改めて思い知らされました。

その後、私は退職してしまったので
2人がどうなったのか分かりませんが
幸せになってくれてるといいなぁって思います。

「愛」はその辺にいっぱい転がってる

で、思ったのは
「愛」って、自分の思い込みを外せば
もっとたくさんあるんじゃないのって事でした。

精神科の患者さんって少なからず辛い境遇があったり、
病気のせいで人から差別を受けたりしてきた人たちなのですが

よく考えるとそういった同じ状況の人でも
何回も入退院を繰り返す人と
普通に生活している人とがいるんだよね。

私は「愛」に気が付けるかどうか

それが大事なんじゃないかと思いました。

私も特別いい事をしてもらうと
「愛だなぁ~」なんて思ってたけど

「愛」はその辺にいっぱいあって
転がってるんだよね。

実際、自分が生きている事実があって
その為にはたくさんの人が支えてくれていて
目の前にいる人たちだけではなく、

私の周りにあるものを作ったり届けてくれたり
そういった事に関わっている人たちがいて
私は支えられてる。

それを、仕事だからやってるとか
お金の為にやってるとか
そういういい方も出来るんだけど

そもそも人が動くときの原動力って
「愛」だと思うんだよね。

「愛」として受け取れるかどうか

もしかしたらとても無茶なこと言ってるのかもしれないんだけど
そう思えない境遇とか
そういう時期も確かにある

嫌な事をされてそれも「愛」だと感じないといけないとか
それは無いんだよ

でもね、大きく考えると
その嫌な事をされたから自分の中で何かが動いて
人生の舵を大きく変えるきっかけになることもある。

だから、どんなことも嫌な側面と良い側面があって
その良い側面は全て
「愛なんだ」って思ったら

自分がこの世で一人とは思わなくなるんじゃないかな?
少なくとも私はそう思ったの。

「愛」に気付くために

ここまで書いてみると、
じゃあ何でもかんでも「愛だ」って受け入れればいいんか
って思うかもしれません。

最終的はそうなんだけど

心底そう思わないと
「愛」って感じれないと思うんです。

だって、小さい時学校で言われてきませんでしたか?

「感謝しよう」って

だけど、そう簡単にみんなに感謝することは
出来てないと思うんです。

ましてや、ひどい虐待を受けているとか
いじめを受けているという状態で

その人たちに周りに感謝しようって無理だし

感謝できるのは、そこに「愛されてる」って言う実感があってこそなんだと思うんです。

じゃあどうすればいいのか

一旦「愛される」事を置いておくんです。
周りから愛されることを一旦脇に置いておきましょう。

そして、自分で自分を癒してください。

自分を嫌な気持ちにさせることや他人から
物理的な距離を取りましょう

そして、好きな事を目いっぱい楽しみましょう。
何でもいいです。

我慢するのをやめよう
言いたい事を言ってみよう

それらをするのにも
今は色んな方法があります。

自分で自分を大事に慈しむってことをして下さい。

学校に行かなくなったら親が悲しむかもしれません。
だけど、本当に行きたくないところに自分を行かせるのは止めましょう

本当はやりたくない事を、お金の為だとか家族の為だと言って
続けるのは止めましょう。

本当の自分がしたい事をして下さい。

そうやって気が付くと
愛がいっぱい転がってることに気がついて行きます。

失敗もすると思います。
だけど、そうなっても大丈夫な自分を信頼してください。

 

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